Monday, June 20, 2005

A death to be respected

 今日は久々に大人買いってやつをかましてみた。ここんところ、自由時間がままならず、虐げられた生活をしてきた反動ってやつかもしれん。フットサルの練習前に某F市のT○H○○○に行ってみたところ、ほしいCDてんこ盛りぢゃないっすか。時間は40分くらいしかなかったのであまりゆっくり見れないのが残念。とりあえず、ジャミロの新譜、Weezer、The Dead 60’sの新譜、それと安売っていたjack johnsonの2ndで我慢してみた。もっともっと手に入れたいCDたちが陳列されていたにもかかわらず、やはり時間の流れには逆らえず練習に向かわなければならない時間になっていた。まだ、The Dead 60’sしか聞けてないのだがカッコいい。晩年のThe Clashみたいかな、ボーカルの声はStray Catsのブライアンセッツァーみたいと言っていた友人A。SublimeやSlightly Stoopidとは少し異なる感じでパンク、レゲエ、スカを混ぜた音が心地よい。この1週間、電車の中で退屈しなくてすむかな。

さて、話は変わるが、フットサル練習中、ぎくしゃくした仲のチームメイトが明日、遺書を書くという。それに便乗し、書いてみようと思って、内容を考えてみたのだが、これが以外と難しい。書くことがない。自分が死んだらこうしてほしいということがあまりないのだ。財産らしい財産もないから分けようもないし、生命保険の受取人は決めてるし、あえてあげるなら、葬式をするかしないかぐらいなもんだ。これに至っても、あまりこれといって希望もない。ということで遺書を書くのは延期してみます。一応、117歳くらいまでは生きるつもりでいるからもう少し遅くても構わないと思う。ただ、明日逝ってもいいように目一杯楽しんで過ごしてるつもりではある。過去の投稿の話になるが性悪説というのがここにも現れてると思うんだな。明日死んでしまってもいいというのは、いつ死んでもいいというのは、残された人達の気持ちはあまり考えていない自己中心的な考えじゃないかなと時々思う。もし、家族ができて子供がいたらなかなか、いつ死んでもいいとは言えなくなるんじゃないかな。3歳の子供とかわいい奥さん残して死ねないでしょ。だから、いつ死んでもいい様に過ごしているが死ぬ気はまったくなし。せめて今、自分の関わっている人たちが死んでから死のうと思う。そうすると117歳くらいまで生きる必要があるかなと計算してみたりしてみなかったり。性悪説と性善説の狭間でなやむR30な夜。

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